2014年03月10日

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昨2013年10月、三度目の高知訪問の機会を得ました。
過去2回とも時間がなくて見送りましたが、三度目の正直、やっと高知城に登ることができました。
現存天守の場合は最上階まで上がって木造天守に直に触れてみることにしています。やっぱり、上がってよかった国の重要文化財...なのでした。
Kochi1
高知城 : 高知県高知市丸ノ内

築城年 : 1603年 築城主 : 山内一豊 別名 : 鷹城
司馬遼太郎作品、高知城編は2作、まずは
koumyou
「巧妙が辻」
信長、秀吉、家康に仕え
ついに土佐一国の大名となった山内一豊とその妻千代の物語。世に言う
山内一豊の妻とはこの千代のことで、賢妻、内助の功の代名詞です。
2006年NHK大河ドラマでは、千代役を仲間由紀恵がやってました。
一大出世物語なのですが、人に仕えながら手柄争いや、人間関係の構築に夫婦そろって奔走する、なんだかサラリーマン人生の哀愁を感じさせるような話でもありました。なるほど「戦国出世譚」

YOTTE
もうひとつが
「酔って候」
〜幕末藩主伝
藩祖山内一豊から15代目
分家の出ながら偶然の成り行きで土佐藩主となった山内豊信(とよしげ)の生涯。
号は容堂、幕末四賢候の一人といわれ一時注目を集めたが、本質が旧態依然とした殿様であり、
激動の幕末においては特に大きな仕事を成し遂げることはなかった。
維新を見届けて後はひたすら酒を飲み続け、明治5年、46歳で没す。


Kochi2天守と本丸御殿
近付いてみると、あれなんか小振りで低いんじゃないの!
というのはなるほど三層六階の天守は通常の石垣の天守台に載せず、本丸に直に建てられていたのですね。
創建時の城は1727年の大火で消失したものの、1753年には消失前の姿で再建され今に続いているわけです。本丸内の建造物はほとんどが現存のものということで、やはり風格が違ってました。
歴代藩主も登った最上階まで上がって、城下町を見下ろしてきました。

Kochi

ということで四国の名城が続いておりますが、実は四国に現存天守を有する城は四城あるのです。
これまでに松山城 8、 宇和島城 25、そして今回の高知城27と歩いてきたのですが、さてもうひとつはというとこれが香川県の丸亀城なのです。
行きたいないきたいな〜と思い、またそう言い続けていると、そうです
先日ついにそのチャンスがやってきたのです・・
おっと、もう頁が尽きてしまいそうです、はい、それでは次回は
四国丸亀城の巻となりまする、期待せずにお待ち下さいね。

じゃぁ また

(23:04)

2014年02月02日

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OOZU1
大洲城 : 愛媛県大洲市大洲903

昨年8月現存十二天守のひとつ宇和島城へ向かう列車の窓越しに、このような立派な天守が視界に飛び込んで来ました。
地図で確かめるとこれが大洲城でした、不意のことでしたが川縁に建つ美しい姿に惹かれ、翌日宇和島からの帰り途中下車の旅となりました。

KAIDO14
司馬遼太郎 街道をゆく14
〜南伊予、西土佐の道
より
....大洲の町は、肘川の白っぽい河原に発達した。
...私が昭和三十年代のおわりごろ、はじめて大洲旧城を通過したとき、水と山と城が造りあげた景観の美しさに息をわすれる思いがした。
....日本中の町が画一化してしまったこんにち、昔の町割りのまま道路のせまさを保っているというだけで、大洲は都市空間としての誇りをもっていいのではないか。



司馬遼太郎のこの旅(1978年)の時点では、櫓のみが残っていて天守は明治の解体以後その姿を残していませんでした。
が、平成6年から天守復元計画が立ち上がり平成16年(2004年)に竣工。
主に市民からの寄付により、また当時の工法で往時の姿を木造で忠実に再現するという復元計画でした。
その天守は普通は奇数が好まれ三重か五重に決まったものが、「大洲のお城は四重四階」といわれたとおり四重構造となっています。
遠目にも人を惹きつける城の佇まいといい、すばらしい復元事業だと思います。

天守と高欄櫓
_RSE0346

また漱石の「坊ちゃん」を映画化するときは戦災で焼けて当時の面影が全くなくなった松山の替わりに大洲の城下町が使われるのだそうです。
そういえば手元にあるこういう映画にも大洲は登場してました。
19

男はつらいよ 第19作
〜寅次郎と殿様
晩年のアラカンこと嵐寛寿郎が出演、 大洲藩藤堂家十八代当主という設定。
マドンナは真野響子。
ロケ地に伊予大洲の城下町が選ばれた1977年公開作品
肘川の河原に発達した大洲の街や城壁の遠景、江戸時代から残る櫓や石垣が美しい挿入カットとして映画に彩りを添えている。



今回、予定外の登城となり、急ぎ足で歩くこととなった大洲の町ですが、またゆっくり来てみたいという思いを強くしました。
次も四国の城・・です(記憶が新しいうちに・・)

じゃぁ また

(18:14)

2014年01月25日

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前回ちょっと訳ありな天守閣だったので、今回は正真正銘、現存十二天守のひとつ宇和島城へ登城の巻です。
愛媛県も松山市あたりへは仕事で出向くことも多いのですが、同じ愛媛でも南伊予の宇和島となるとなかなか機会が得られず、行ってみたい町のひとつでした。
で、昨年8月松山での仕事の後、一日居残って伊達十万石の城下町まで足を伸ばしました。
翌朝一番で登城、さすが伊達者の城小振りながら三層の美しい天守です。
_RSE0257
宇和島城(現存)天守 : 愛媛県宇和島市丸之内

宇和島城編は
「街道をゆく14 南伊予・西土佐の道」
城の山より
〜宇和島には市街のはしばしに江戸時代の城下町のにおいがのこっているが、奇妙なことに城山のまわりほどちがう。天守閣と城山だけが凝然と青い空をささえていて、その孤独さは悲痛なほどである。〜
…と、明治の廃城による取り壊しと戦時の空襲、戦後の開発で城山と丸の内がすっかり姿を変えてしまったことを嘆いてます。


これは連載中1978年の旅の印象ですが、今もまさにそのとおりでした。

宇和島伊達家の藩祖秀宗は元は仙台の伊達政宗の第一子でした。
ただ豊臣秀吉のもとで養子(人質)として育ったため、大阪冬の陣の後、徳川により仙台から遠隔の宇和島へ押し込められたということです。
ただ十万石を与えられ、その後は転封させられることなく伊達家は明治の廃藩置県まで続きました。
そんな歴史ある城下町を歩き回れて長年の希望が適いました。

現存天守なのでもう1カット
uwajima2

YOTTE

もう一作上げます「伊達の黒船」
〜「酔って候」収録
藩祖秀宗から数えて八代目伊達宗城
(むねなり)は幕末、志士たちから
「四賢候」の一人に数えられた。
その開明藩主宗城がペリー来航から
わずか六ヶ月後に自藩で黒船(自走船)の建造を試みる
そこに器用だけが取り柄の下級藩士嘉蔵も巻き込まれてゆく・・



その黒船も走っただろう宇和島湾と宇和海方面を眺めながら
お後がよろしいようで。
uwajima5

実はこの日、もういち城を訪れることが出来たのです。
それはまた今度、しばらく四国の城が続きますよ

じゃぁまた




(14:54)

2014年01月13日

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2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
なかなか好調なすべり出し(・と思うのですが皆さん如何でしょう)
なので前回にひき続き黒田官兵衛ゆかりの城への登城でございます。
豊前(大分県)中津の中津城です。
Nakatsu-1
中 津 城
大分県中津市二ノ丁本丸
別名:扇城 小犬丸城
築城主:黒田(官兵衛)孝高
築城年:天正16年(1588年)

美しい天守と櫓を持った立派な城の写真を撮ってしまったのですが・・
これがまた多分に漏れず、時代考証的には問題有りな天守なわけです。
昭和39年建造の模擬天守と櫓で、これはかつての城を復元したのではなく観光目的にそれらしく新築した模造品な訳ですね。(この頃全国的な天守復興ブームでもあったのですが)
さらに数年前には維持管理に困った所有会社がこの城をネットオークションに出品という話題もありました。
こういう模造天守の例は全国各地に多数存在します。
僕自身は街おこしや土地の歴史、郷土愛の象徴といったアイコンとしての城郭復興はあって良いことだと思ってます。。
ただ天守閣については史実を全く無視した唐突なものも多く、その辺は気をつけて見てゆきたいと思います。
石垣などの遺構は間違いなく官兵衛の設計(なわばり)ですからね。

その存在しなかった天守のことについて、司馬遼太郎もふれています。
この「城を歩く」のベースになっている「司馬遼太郎と城を歩く」
その中津城の項で取り上げられた司馬作品が「街道をゆく34」です
Kaido34
・街道をゆく 34・
〜大徳寺散歩、中津・宇佐のみち

「如水と中津」から「中津城」
までの短い文章に、黒田家の来歴と
黒田官兵衛の波乱の生涯が濃縮され
ており大作「播磨灘物語」の
ダイジェスト版を見る思いです。
知略に長け人品卑しからぬと伝わる
官兵衛もやはり戦国の軍師、豊前入国の後に手を染めたと伝わる血生臭い謀略にもふれています。
その辺りNHK大河に出るかどうか?
ドラマで官兵衛ファンになったら
参考までに知っておきたいですね。

城の部分を抜粋しておくと
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中津についてふれたい。
 この地が、中央に知られるようになるのは、織豊時代から関ヶ原の時代にかけてで、いつに如水という人物の活躍による。

如水は、秀吉に天下取りをさせた男といっていい。そのわりには、もらったものはわずかにすぎなかったが、それをうれしがって豪勢な城をきずくような男ではなかったろう。

要するに如水は天守閣などつくらなかったろう、ということを言いたいために、右のことをのべた。
天守閣は攻防のためよりも、権威を見せるためのものなのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、天守閣不在説を支持していて
さらに当地で模造天守が建っているのを見た司馬は

(中津というのは、そんな町か)
  と、この町を尊敬しているだけに、かすかながら興ざめた。___


と記しています。

ま、それは置くとして、折角歴史ある町へ来たのですから城下町散策
ここ中津出身の超有名人、本邦最高額紙幣の肖像福沢諭吉旧居跡へも
福沢諭吉旧居
_RSE0221











とにかくも、以前から一度行きたいと思っていた中津の町
早朝から午前中一杯をつかって秋晴れの城下町を散策し、中津城も見ることが出来ていい旅でした。
さらにこれが縁で福沢さんの描かれた紙片がひらひらと舞い込んでくれば言うことナシ・・なんですけど、ね。

じゃぁ  また

(16:32)

2014年01月04日

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お久しぶりです
「城を歩く」前回の忍 城から何と3年4ヶ月の月日が過ぎておりました。
理由を一言で云うと‘‘サボってた''...ということです。
で、本日また唐突に再開するのですが、記事にしてアップするのをサボっていただけで、城歩きはずっと続いておりました。
よってネタは溢れんばかりで、出番を今か今かと待っております。
ご用とお急ぎでない方、また宜しくお付き合いください....ネ

それでは本日の登城先は御着城・・えっ?・・ごちゃくじょ〜!
世界遺産姫路城の建つ姫路からJR線で東へ1駅、現在は土塁と堀だけが残る城址です。2010年4月姫路城登城の翌日に足を伸ばしました。
_RSS0067

御着城 : 兵庫県姫路市御国野町御着
築 城:1519年(~1579年廃城)
築城主:小寺政隆
別 名:茶臼山城

どう見てもマイナーなこのような城址をなぜ突然持ち出してきたかといいますと、実は明日(2014年1月5日)放送開始のNHK大河ドラマ
「軍師官兵衛」の主人公、黒田官兵衛ゆかりの城なのでした。

近江、備前から播磨と流浪していた黒田家、官兵衛の祖父重孝が仕官した小寺氏の居城が御着城だったのです。
この辺りの話もドラマに出てくるのでしょうか?
記憶がかなり怪しくなっているので、間違ってたらゴメンナサイです。
官兵衛と秀吉ならやはり姫路城の方ですけどね。
以上のことに付いては、司馬遼太郎の播磨灘物語に詳しいのでもう一度上げておきます。
こちらでご確認下さいませ。
harima

姫路城が現在のような壮麗な姿に改修されたのは、関ヶ原の後、徳川系の池田輝政の入城後のこと。
それでも姫路城は豊臣秀吉の天下取りの足場となった城(1580年入城)、出世城としても有名。その秀吉の名参謀だったのが黒田官兵衛。秀吉も家康も畏怖した戦国武将・官兵衛の物語。有岡城に幽閉された日の
「藤の花房」の逸話に感動しました



城址公園の「黒田官兵衛顕彰碑」
_RSS0059
そういえば今年2014年は姫路城の大改修工事竣工の年だったかな?
NHK、それも見越しての「軍師官兵衛」なのか!
やるなぁ。

ということで久々すぎてここで力尽きました。
とりあえず明日の第一回放送が楽しみだなぁ〜
(・・と逃げるように)
じゃぁ  また


(14:47)

2013年05月06日

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「八百劇場」とは、カメラマン後藤徹雄が始めた新企画です。
撮影開始日は2013年4月23日、この写真から始まります。
これは岩手県一関市郊外で撮影したものです。

漠然としたテーマはあるのですが、しばらくは撮った順にアップしてゆきますので、通りすがりの風景として眺めて頂ければ結構です。
もう少し揃ってきたらお話しできるかと思います。

では、お時間のある方、お立ち寄り眺めていってくださいませ。
よろしくです<(_ _)>
・・・・・・・・・・・・・・・・

PS:こちらに掲載することにしました
/ 晴 / 撮 / 雨 / 読 /

_RSE0128


Nikon D800E + Nikkor24-70mm f 2.8

(12:25)

2013年02月22日

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ずいぶんしばらくぶりです・・・ね(^_^;)
SNSでのフローな書き込み=内容のない気楽な呟きに嵌ってしまい、
こちらが全く疎かになっておりました。
ま、こちらにストックとしての価値など「あるはずもなし」と、やっと気が付きまして、また気楽に再開することにしました。ご用とお急ぎでない皆様、よろしくお付き合い下さいませ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・というわけで
止まってしまっている人気企画(?)「城を歩く」
実はその後もあちこち歩いてはおりまして、写真もデータも溜まりにたまっております。
記憶やデータが飛ぶ前に、続きをお披露目してゆくつもりです。

そこへ、今年に入って早々、こんなものが創刊されました!
分冊百科のディアゴスティーニから
「週刊 日本の城」 http://deagostini.jp/nns/
創刊号は特別価格290円・専用バインダー付きと掴みも上手い!
日本の城













つい手にとってレジへ向かってしまいました。
大きめのバインダーが書店の袋に入るだろうか・・なんていうのは
全くの杞憂に過ぎず、専用レジ袋まで同梱されておりました。

パラパラめくりながら、さて全部で何冊の発行だったかな?
と、調べてみたら・・やはり全100号=100週間と判明。
また、こんなの→「ディアゴスティーニ・シリーズの総額」も見つけてしまい結局、今回は継続購読を見送ることにしたのです。

実は以前に一度だけ、分冊全100号を揃えたことがありました。
↓これです、毎週毎週、2年間買い続けた
週刊「The MOVIE」
映画史100年ビジュアル大百科
1998年3月〜2000年2月
The Movie












ご覧の通り結構かさばりますので、うちにはこれをもうワンセット置いておく余地はありません。
今後こういうものは、データで購入してクラウド上に保管するという形になるのが正解ではないでしょうか。
(ま、紙の質感と量感がコレクターを惹きつけるのも事実ですが)

再スタートの「城を歩く」シリーズの資料として欲しいのは山々なんですけどね。
時々立ち読みするか・・おっとこれをいっちゃぁお終いだったな(^_^;)
ところで図書館には置いてるのかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PS:あ、本気で全号揃える方は是非、定期購読を!
2年のうちには買い損なう週もあって、数号まとめ買いってことがあるわけです。
この時つい持ってる号を再度買ってしまったり・・・
ぼくも何度かやらかしました・・ご検討下さい。

*アーカイブ「城を歩く」は→http://blog.rightstuff-photos.com/archives/

じゃぁ また










(22:46)

2012年04月25日

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またオークション・アラートが届いた。
これまた登録を削除しようかと思った矢先の出来事!
800円で落札、やったぁ〜・・・とはいえ
_DSC0158












例によって皆様にとっては、どうでもいいような映画ソフト1枚、
1931年のユニヴァーサル作品「魔人ドラキュラ」、多数映画化されたご存じ!あの吸血鬼ドラキュラ伯爵のお話。
しかも一世代前のメディア、レーザーディスク版なのだ。

名称未設定 1魔人ドラキュラ
レーザーディスク版
パイオニアLDC
怪奇役者ベラ・ルゴシ主演作品
映画も古典だが、もはやレーザーディスク(直径30cm)というメディア自体、見たことがないという方のために、現行のDVDを並べておく。巨大な円盤だ!

細かいことは省く、と、私はこのレーザーディスク版映画ソフトのコレクターだったのだ。
価格が安定し、さらに中古市場も形成された1990年代に入ってから集め始めたので、コレクターと云うには半端な1,000タイトル弱というところで終わってしまっている。
終わったのはメディアが今のDVDへと変わったからに他ならない。

今更売りに出しても、二束三文・・・なら見続けよう・・と今でも巨大な円盤をビュンビュン回しているのだよ!(もちろん新作はDVD)

ところで、怪奇映画とはいえ一応、映画史に残る「魔人ドラキュラ」だ、持っていなかった訳ではない。
dk 魔人ドラキュラ
レーザーディスク版 / IVC
内容は全く同一の作品だが、こちらは
「世界クラシック名画100撰集」の1枚として発売された物で装丁、ジャケット違いということになる。
今回入手の「ユニヴァーサル・ホラー・シリーズ」、ジャケがイラストのやつがずっとずっと欲しかったのだ。

なぜか?って・・コレクターだもの、コンプリートにしたかったのさ!
これでどうだいっ!
_DSC0146










説明省略・・・・じゃぁ また



(09:59)

2012年01月22日

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この週末、久しぶりに雨が降った。
潤いを与えるはずの恵みの雨は、雪まじりとなり、さらに悲しみの雨、いわゆる涙雨になってしまった。
数日前、旧知のモデル事務所の女性マネージャーの訃報に接していた。
冷たい雨の土曜日、多くの弔問客にまじって彼女の遺影と対面した。

翌日の今日は、レコードとCDを聴きビデオ映像を観て過ごした。
’85〜6年頃のスティングの音楽である。
早いものでもう25年、四半世紀が経過している。

あの頃、まだアシスタントだった僕は、独立を考えながらも不安な日々を送っていた。
同じ頃、立ち上がったばかりのモデル事務所があった。
代表と二人の女性マネージャーで始めた会社もやはり、先行きの不安があっただろう。
そんなハードタイムに僕たちは出会ったのだ。
亡くなったしたのは、その二人のマネージャーのうちの一人だ。
彼女はスティングが好きだった。


stingブルー・タートルの夢
The dream of the blue turtles
1985年 LPレコード
ナッシング・ライク・ザ・サン/NOTHING LIKE THE SUN
1987年  CD
なか一作('86)を挟んでメディアがLPからCD へと変わっている。
86年はCD とLPレコードの売り上げ数が逆転した年だ



1986年6月、道玄坂渋谷ジョイシネマのレイトショーでモデル事務所の代表、二人のマネージャーと僕の4人は席を並べて、スティングの映画
Sting / Bring on the Night を観た。
ドキュメンタリーとしても素晴らしい音楽映画だった。
その3ヶ月後、僕は独立しフリーランスになった。

その後彼らの会社は、質の高いモデルを提供する事務所として成功し今日に至っている。
僕はモデル事務所との縁が薄くなり、連絡を取り合うこともなくなってしまった。25年前、それぞれの人生が一瞬交差し、その後はまた別々の
25年を生きたと云ってもいいだろう。

彼女は病を発症後、半年で逝ってしまったという。
死期を悟ったとき、自分の葬儀に来てくれるであろう友人知人に向けて、自筆のメッセージを残していた。たくさんの思い出の写真とともに。
なかでもスティングと並んで撮った一枚がひときわ輝いていた、
そして「やっぱりスティング最高!」と結んでいた。ずっとファンであり続けたのだ。

20年以上も会わなかったが、時々に思い出していたのは、やはりスティングの音楽でつながっていたからかもしれない。幸せな後半生だったと信じたい。
とにかく、「ずっと会いに行かなくてごめんなさい、これからはスティングを聞くたびにあなたのことを思い出します」、と写真の彼女に手を合わせた。
スティングは今もなお、輝き続けている。
長かったようで、本当に一瞬のような四半世紀だった。
心からご冥福を祈ります。


sting2 1
ブルー・タートルの夢 / スティング 
Bring on the Night  DVD
1985年制作(日本公開1986年)
ユニバーサル
公開当時は、前作の「ブルー・タートルの夢」がそのまま邦題になっていた。
派手さのない手法ながら、スティングがいう「バンド誕生の記録」を刻んでいる。
今観ても少しも古さを感じさせない、ロック・ドキュメンタリーの傑作である。 

(23:52)

2011年11月29日

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朝一番にメールソフトを立ち上げて、
いつものように、あまり役にも立たない「お知らせ」や各種の営業メールをまとめて削除しようとして、ふと手を止めた。
ふだん滅多に当たりのないYahoo!からのオークションアラート
何年か前に登録したことさえ忘れていた音楽CDが出品されたとのこと!
価格は1,000円で開始(即決1,500円)となっていて、出品後2時間ほど。
こういう場合、絶対に躊躇してはいけない!・ということを散々経験してきたので即クリック!即決価格で落札しました、ヤッタァ!
嬉しい知らせでした。
・・という、たかがCD一枚、人様にはどうでもいいようなことです
以下は興味のある方のみお進み下さい・・・
yahoo

落札したのは、1990年にBMGビクターから出た、ブルーバード栄光の遺産シリーズ(全38タイトル、CD50枚)のなかの一枚で「トミー・ドーシーとクランベイクセブン」
当時(いまも!)全タイトル一括、大人買いなど出来ず、ほそぼそと買い集めているうちに、あっさり廃盤となり、あとは中古ショップやオークションで探すはめに・・・
中でもこの一枚、もう10年くらい探していたもの。
シリーズの内容はというと、日本ではあまり人気のない、アーリージャズと呼ばれる初期のジャズからスイングまで(1917年〜1940年頃)
日本の自称(モダン)ジャズファンには、ほとんど相手にされてないジャンルです、ま、古典といっていいかな。
でもローマも、全ての芸術も一日にして成るものはなく、たまには故きを温ねてみましょうよ・・ってところです、はい。
目指せコンプリート!(あと5枚・・)
buluebird




(16:50)

2011年08月31日

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8月の半ば、世間ではお盆休み、里帰りで皆が東京を脱出するなか、
居残り組の僕は、今年もまた無駄な抵抗、小っちゃな旅へ。
昨年は確かお隣、埼玉県の行田市と羽生市でした。(羽生「田舎教師」
で、今年はというとさらにショボさ感アップの千葉県「松 戸」です。
(決して松戸がショボいとは云ってません、僕の企画が・・です)
都内葛飾区から江戸川を渡ると、そこがもう松戸市
東京のベッドタウンとして発展し、人口では千葉県第3の街(1.千葉市 2.船橋)です。
今でこそ江戸川を渡って、と簡単ですが、江戸の昔は橋がなく、通行はすべて「渡し船」でした。
かつて利根川水系に15カ所あったという「渡し場」のうち現在まで残っているのが「矢切の渡し」、松戸市矢切と葛飾区柴又を結んでいます。
まずはこれを見に行きました。

Ygiri1矢切の渡し(松戸側)
運行時間:10時〜16時
運航日:3~11月は毎日
12~3月は土、日、祝
帝釈天縁日は運行
料金:中学生以上100円
小学生50円
木立のなか薄暗く、ちょっと寂しさも・・

yagiri4柴又側から見る矢切
矢切側の鉄道へのアクセスは悪く、実際の住民の交通としてではなく、柴又観光のお客が往復で乗ることがほとんどのようでした。




この「矢切の渡し」を有名にしたものが三つありました。
80年代にヒットした歌謡曲「矢切の渡し」、また対岸の葛飾柴又が舞台の山田洋次監督作品「男はつらいよ」シリーズ
そして今回の矢切行きの直接の動機となった、明治の作家、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」です。
Nogiku2
野菊の墓  〜 伊藤左千夫
明治39年 / 新潮文庫
物語の舞台が冒頭で〜「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い丘の上でやはり矢切村と云ってる所。」と紹介されていて、時々仕事で松戸方面へ来ても素通りしていた矢切を見てみたい、と思ったわけです。
実際来てみるとなるほど高台になっていて起伏に富んだ地形でした。
ご存じの通り、15歳の政夫と2歳年上の従姉民子との幼い純愛のお話で、矢切の渡しでの別れのシーンが有名です。

さらに「野菊〜」を有名にしたのが
Nogiku1
映画「野菊の如き君なりき」
〜木下啓介 監督作品
1955年:松竹作品
原作はもちろん「野菊の墓」
75 歳になった政夫(笠 智衆)が故郷を訪ね民子を悲しく懐かしむ設定になっていています。
木下監督の傑作というより、日本映画史に残る名作でしょう、未見なら是非観て下さい。
ロケーションは昭和30年とはいえ、さすがに松戸ではなく、信州の美しい風景の中で撮影されています。モノクロの映像が美しいです。

80年代にもアイドル松田聖子での映画化、山口百恵のTVドラマと再三取り上げられていますのでそちらでご存じの方も多いかも知れません。

Nogiku3最後に「野菊の墓文学碑」
それにしても昨年の「田舎教師」といい、埼玉、千葉の川沿いの村での悲しい悲しいお話ですね。
なんか楽しくなれることないのかいってことで
対岸へ渡って、葛飾柴又も歩いてきました。
「寅さん」についてはまた今度。

やっぱり僕には東京の方が・・おっと、「それを云っちゃぁお終いよ!」かな。

じゃぁ また

(22:35)

2011年08月17日

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この2枚の薄いプラスチックの板は何に使うものでしょう?
フィルムがヒントになってますが・・・
_DSC0101

最近はカメラと云えばデジタルカメラのことになっていて、もうフィルム自体を見たことがないという世代も登場して来そうです。
僕も35ミリのフィルムを使った記憶がそろそろ怪しくなってます。
で、この道具といえば、最後はいつのことだったか・・・

これは「フィルム引き出し器」、または「フィルムピッカー」といって、パトローネに巻き込んでしまったフィルムの先端をもう一度引き出すための道具です。通称「ベロ出し」

どういう状況で「ベロ出し」が必要になるかというと、たとえば途中まで撮影したフィルムを一度カメラから抜き、あとでもう一度残りを使いたい・・・が先端を巻き込んでシマッタァ!などです。

まずは実際の使い方
_DSC0104このようにフィルムの先端部を巻き込んでしまっても、またはそれで困っている人を見かけたら、
慌てず騒がず、マジシャンのようにすました顔で
「ベロ出し」を取り出します。



_DSC0105まず大きい方の板(ガイド板)をパトローネの隙間から差し込みます。
このように折り返しの部分まで差し込んだら、フィルムの巻心を巻き込み方向へ回転させると、パチンと音のする箇所があるので、その位置を確認し、そこで止めます。

_DSC0106さらに小さい方の板(引出し板)を、ガイド板に重ねて差し込みます。フィルムのパーフォレーション(送り穴)に引き出し器のツメが掛かります。巻心を少し巻き込み方向へ回しても良いです。



_DSC0108
あとは引出し板を引き出すと、フィルムの先端部がスルスルっと付いてきます。
ここで、歓声と拍手が起きます。目出度し目出度し。



_DSC0110これは(株)エフエルという会社の製品で、当時の定価980円。
他にも2枚のフィルムで挟み込んで引き出すタイプもあります。
で、昔はこれを持っていると、スターに成れた・・かというと
そうでもなく使う機会も2〜3度有ったか無かったか。

割とどうでもいいような、でもちょっと可愛らしい、
天使の羽のようなアナロググッズです。
お試し下さい、機会があれば・・ア、もうないか!

じゃぁ また





(20:07)

2011年05月13日

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rose4

5月はバラの季節。
毎年いまごろ、バラの咲く庭やバラの栽培に魅了された人々を取材、撮影する機会に恵まれます。
聞けばバラ造りは、原種に色々改良を加えながら数多くの品種を生み出し、オールドからモダンローズへ・・なんていう話についついJAZZの歴史を重ねてしまいます。
バラの種類には疎くて、相槌さえ上手に打てないのですが、JAZZの方なら無駄口のひとつも叩けるかも・・・・・・・

ということで、
今日は僕のとっておきのローズを紹介いたしましょう。

その名はローズ・マーフィー Rose Murphy(生年不詳〜1989年没)
ピアニスト=シンガー。百花繚乱の女性ヴォーカルのなかでも、ひときわ異彩を放つ褐色の薔薇です。一言で云うならベイビーヴォイス。足を踏み鳴らしながらピアノを弾き、囁くように歌い、可愛らしくユニークなスキャッティング。その個性を超えた突然変異種的ヴォーカルとスインギーなピアノプレイを一度は聴いてみて下さい。

数少ないレコーディングからまずは代表作を
rose1
Not Cha-Cha, but Chi-Chi

Verve/ポリドール/1957年
'93年の再発のLPレコード
'98年にはCDで発売になるも現在廃盤


この国内盤のジャケット帯の宣伝文句を引いておくと
「チー・チー・ガールで一世を風靡したローズの代表作!! その特異な弾き語りはブロッサム・ディアリーの黒人版である。・・これぞ面白ヴォーカルの決定版!!」
・・・となんだかイロモノ扱いが気になりますが・・・・
ブロッサム・ディアリーもやはりベイビーヴォイスの白人女性シンガー=ピアニスト。いやぁ、ローズを聴いた後では、ブロッサムが普通の人に思えてきますよ。

さらに二枚のレコードを
rose2

I Can't Give You Anything But Love(右)
DECCA/ビクター
1950年代のデッカ録音全14曲を集めた日本編集盤'82年発売
帯のコピー・・
「ミルクを飲んだ子猫チャン(!?)のようなキュートな声とスインギーなピアノが評判の楽しき歌姫ローズー・マーフィーの超貴重盤!」 となってます。シリーズ「おもしろ音楽大集合」の一枚。

JAZZ,JOY and HAPPINESS (左)
フューチャリング・スラムスチュアート
1962年 United Artists / キングレコード
そうです、ベースとハモりながらスキャットするあのスラム・スチュアートと組んだ人気盤。イロモノ芸のダブルパンチって、もう認めるしかありませんね!

と、いくら文字を並べられても分かりませんよね。
で、YouTubeに動くローズ・マーフィがアップされてましたのでリンクします。
(ちょっと音声にズレがありますが、なかなか貴重な映像かと思います。
決して音声トラブルじゃありません、これが彼女の地声なんですよ!



こんな感じなんです、サイコーでしょ!お気に召しましたか?
コメントお待ちしております、どうぞよろしく。

そこのモダンジャズマニア君たち、いかが?・・お好みじゃぁない!?
まぁ、そうでしょうネ。失礼致しました。
どうぞ、キース・ジャレットの一人よがり声でもお聞きになっいて下さいネ。

じゃぁ また




















(21:33)

2011年04月30日

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私は几帳面で律儀な人間だ(と自分では思っている)
義理堅く物事の基本と順序を重んじている(つもりだ)
そんな私が物を蒐集するとなるといろいろ苦労がつきまとう。

まず、いろはの「い」から、アルファベットならabcの「a」からきちんと揃えることになる。余談だが英単語を憶えるときには「赤尾の豆単」(古っ!)の最初のabandonから始める。そしてすぐに文字通りabandon(諦める)ことになる。

そんなことはどうでも良い、LPレコードの話だ。ジャンルは「JAZZ」
世がCDの時代からさらにネット配信へと移り変わっても、今もこそこそと中古レコード店に通っている (・・こそこそする必要はないが偉そうにも出来ない)

先日ついに30年も探していた盤を発見して驚喜した。
断っておくが私はガチガチのモダンジャズマニアではない(全てのポピュラーミュージックやクラシックのファン、気が向けば演歌でもOK)
ましてオリジナル盤に大枚はたくなどとは無縁のしょぼ〜いコレクター
(もどき)だ。

ただし、順番にはうるさい。20代に影響を受けたジャズ評論の大和明
「ジャズ歴史と名盤」を蒐集方針の拠り所としている。その冒頭、基本的レコード・ライブラリー(いいね!)の最初の一枚がこの「ジャズ・オデッセイ Vol.1/ザ・サウンド・オブ・ニューオリンズ」だったのだ。
(義理堅く順序を重んじると云ったでしょ)
odessay・・・・・・・・・・
Jazz odyssey Vol.1
THE SOUND OF NEW ORLERNS1917-1947

(CLUMBIA:JC3L30)
史上初のジャズレコーディング,1917年(シカゴ)ODJBの2曲はじめ20年代のニューオリンズ録音,サム・モーガン8曲など貴重な音源多数の3枚組。正にいろはの「い」である。
・・・・・・・・・・

輸入盤で廃盤のためなかなか出会えないまま30年が経過してしまった。
収録曲はすべて、いやそれ以上にCDで買い集めたにもかかわらず、この3枚組のレコードが手元にないためにずっと,いろはの「い」が抜けてるようで落ち着きが悪かったのだ。

日本じゃ冷遇されるアーリージャズ、しかも寄せ集めのオムニバス盤。
数万円もするモダンのオリジナル盤を偉そうに並べている店だが、500円
(税込み)という舐めきった価格設定に内心Vサインの連発だVVV!
(この店はトラッドやスイング特にフュージョンには冷淡、ゴミ扱い、
300円程度で私にとっての名盤を拾えるのだVVV!)
ワンコインで長年の念願が叶いなんだか拍子抜けだが、遠方より友来たりあるまた楽しからずや・・か?

いろはの「い」を手に入れ、目指す最後の「ん」(いろはの最後は「ん」じゃないが・・)まで中古レコード店通いが続くこととなる。

かくて律儀で几帳面で義理堅く基本と順序を重んじるコレクターの苦難の日々が続くことになる。

分かるかなぁ〜分かんねぇだろ〜なYeh~! (古っ!)

じゃぁ また

PS: その後、このボックスは再発盤でオリジナルには豪華詳細なブックレットが付いていたそうだ!オリジナルには拘らないと云ったものの、それも見てみたいというのが、人情ってもんですぜ。





(00:27)

2011年03月28日

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久しぶりです!
まずは東北関東大震災で被災された皆様に、心よりのお見舞いを申し上げます。報道を通してもたらされる甚大な被害の模様に言葉を失い、自分の無力をつくづく感じさせられました。
被災地のことを思うと、この軽薄極まりないBlogの書き込みにためらいを感じていましたが、まずは自身の日常を取り戻すことが肝要と気付き、また続けて行きたいと思えるようになりました。
たわいない話ばかりで恐縮ですが、どうぞまたお付き合い下さいませ。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

_1000560
去る3月11日、東京も相当揺れました。
幸い事務所に大きな被害はなかったのですが、石膏像が棚から落ちて真っ二つに!
これはアメリカのお土産品店でよく見かける
カリカチュア像で、ジャズの巨人 "サッチモ”
ことルイ・アームストロングです。(約40cm)
もちろん高価なものではありませんが、'97年にジャズの故郷、ニューオリンズを訪れた際、当地で買い求めた記念の像でした。

アーリージャズ愛好家、サッチモファンとしての思い、またニューヨークから列車で30時間掛けた旅と、ジャズの聖地ニューオリンズでの思い出がズシッと詰まった一品だったのです。

_DSC0129こんなつまらないモノでも幾ばくかの喪失感が漂いました。ならば震災で大切なもの全て、大切な人まで失った被災者の喪失感とは如何ばかりか、ちょっと想像を超えていて、再び言葉を失うばかりでした。
しばらく放置しておいたのですが、やっと落ち着きを取り戻し、自分自身の天災への心構え、また必ず復興する日本支援のアイコンとして、接着剤で補修してみました。不完全で痛々しい姿ながら復活し、今またサッチモスマイルで立ち上がっております。
がんばろう、ニッポン!



で、ルイの膨大な録音の中から何か一曲、勇気が湧いてくるような、人生の応援歌になりそうな曲ということで選んだのが表題の
「明るい表通りで」on the sunny side of the streetです。
1930年、世界恐慌の下で作られたレヴュー曲。
歌詞に「1セントも無くても、気分はロックフェラー・・」など世相が反映されていて、同じ通りなら、日の当たる側を歩いて、暗い時代を乗り越えて行こうよと歌いかける、今も沢山のカヴァーが聴けるスタンダードナンバーです。

アルバムは1947年のボストン、シンフォニーホールでの傑作ライブを

LA5サッチモ・アット
・シンフォニー・ホール

〜ルイ・アームストロング&ザ・オールスターズ
/ MCAビクター(Decca)
MVCR-220015~16
現在、廃盤のようですが、輸入盤か中古市場で入手出来るかも。


この日本版CD(1995年)での、故大和 明氏のライナーノートより同曲の部分を紹介しておきます。
(大和 明は僕が敬愛する数少ないジャズ評論家のひとり、2008年没)

2.明るい表通りで
「・・単に不景気を吹き飛ばすような明るい歌という通俗的な解釈ではなく、望むことなく生まれついた黒人としての数々の屈辱的な侮蔑の体験の中からルイが見極めた生き方が歌いこまれているように想えるのである。同じ道にも日向と日陰があるように、人生にも明るいときもあれば暗く悲しい、辛いときもある。でもどうせ暗く沈んで諦めるよりも、努めて気持ちを明るく引き立てるようにしようではないかとでもいっているように・・・・」 大和 明 / ライナーノートより
(素晴らしい!さすが大和さん!)

例えばそれは、モダンブルースの開祖、BBキングのステージ半ば、BBがギターと寄り添うようにして奏でるスローブルースの背後に脈々と流れるもの、黒人の長く辛く悲しい歴史を感じて思わず目頭を熱くさせるあの感覚に通じるものかも知れません。

今まで割とあっさり聞き流していた歌が、今度のことで何か違った響きを持って聞こえてくるようです。
自今この「明るい表どおりで」on the sunny side of the streetを自分自身の、また必ず復興する日本への応援歌として折に触れ流して行こうと思ってます。
もし、ご存じなかったらこの機会に聴いてみて下さい。
よろしくです。
la1-1同じくDecca時代のスタジオ録音版
Heart Full Of Rhythm
同曲の初録音(1934)を収めた
Portrait of the Artist as a Young Man(1923~1934)
1947年、NY.タウンホールでのコンサート
Complete TOWNHALL CONCERTなどでも聴けます





ということで、もう一度、「がんばろう!ニッポン」

じゃぁ また



(17:31)

2011年01月30日

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アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ
1955〜1990
nightintunisiaA Night in TUNISIA
〜Vik:1957年4月2,8日
「チュニジアの夜」の作曲はディジー・ガレスピー。
メッセンジャーズの重要なレパートリーとなる
国内では'74年にビクター
よりRCA Jazz Spirit 1,300円シリーズとして発売。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ジャズという種類の音楽を聴き始めて早々、「チュニジアの夜」(A Night in Tunisia) というちょっとエキゾチックな響きの曲名と、演奏していたアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズというバンド名に惹きつけられた。
タイトルとバンド名に妙にくすぐられたのだ。
早速レコード店でブレイキーの棚を漁ってみると「チュニジアの夜」というアルバムがすぐに見付かり、メッセンジャーズコレクションの最初の一枚となった。定番中の定番「モーニン」Moanin'より先だった。
続けて同時期の同じメンバーによるアルバムも順次手に入れながら、少しずつ耳、いゃ体を慣らしていくというジャズ入門コースをたどった。
JM1957

(1956年末から1957年秋までの一年間にメッセンジャーズ名義の録音が8レーベルに10枚ほどある。)

しかし!である。
このビクター版「チュニジアの夜」の日本語ライナーを読んでみると
「・・この時期のメッセンジャーズは「暗黒時代」と呼ばれる低迷期にあった」となっているではないか! 
ア・ン・コ・ク・・ジダイ〜!!
当時これらの国内盤はほぼ全て廉価シリーズで売り出されていて、購入しやすかったのも事実。
「さてはまがい物の投げ売り、ババ引かされた〜」・・と落胆して見捨てたかというと、実はそうでもなく、繰り返し聞き込んだ。
ひな鳥が卵からかえって最初に見たものを親だと思い込む刷り込み現象、本能行動のようなものだろうか、今でも好きで結構聴いている。

では「暗黒時代」なんて一体誰が何を根拠に云ったのか・・というと
云った(書いた)のは、今は亡き油井正一その人。
ビクター盤のライナーが動かぬ証拠。
またメンバーが若手中心で決定的スター不在、録音先レーベルも次々に変わり落ち着いた演奏活動が出来なかったなどというのがその理由なのだが・・・・
今でも油井さんのファンである。それでもレコードを聴く限り「暗黒時代」はちょいと言い過ぎじゃないの?‥と思う。
大物批評家も筆が滑ったか、それとも案外、確信犯的な煽りだったかもしれない。確かに行間からは支持するニュアンスが滲み出ている。
・・・いずれにせよもう時効ということだ。

ジャズ界の名門バンドであり、幾多のスタープレイヤーを輩出し続けたメッセンジャーズ。
その35年の歴史には好不調の波、山も谷もあって当然だろう。
今では、油井さんの呪縛も解かれ、ジャッキー・マクリーン、ビル・ハードマン、ジョニー・グリフィンのいたこの時期の録音も、典型的ハードバップの名演奏と再評価されているのが嬉しい。

ホレス・シルバーのいた初期、58年「モーニン」のファンキー時代、ショーターほか3管編成時代、など絶頂期のものついて今更あれこれ言うのは止しておこう。
ジャズの聴き始め、右も左も分からなかった若造には、安くてありがたかった「暗黒時代もの」、ジャズにまつわる個人的原風景にも似た1957年のアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの録音こそ、谷間に咲いた百合のように、今も心に残る傑作ばかりだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
nit
A NIGHT IN TUNISIA
〜BLUE NOTE
1960年8月14日
メッセンジャーズの「チュニジアの夜」なら、モーガン、ショーター、ティモンズのこちら
ブルーノート盤が本命か。

ほかにも「クラブ・サンジェルマン」など対抗には事欠かない。
ならば暗黒呼ばわりだったビクター盤は大穴、万馬券ですな!
ちなみに、アート・ブレイキーは、競馬が好きだったらしい・・・・
(アート・ブレイキーに競馬が好きかと訊ねたら〜武市好古1992年てな本もありました)参考まで・・

じゃぁ また


(16:26)

2011年01月06日

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休憩に珈琲でも入れようか・・と思ったら
珈琲メーカー用のペーパーフィルターを切らしていました。
薄い紙のフィルター1枚が無くてコーヒーが飲めません!
(まさかティッシュじゃ代用できないし・・いや出来るかも!)、そんなフィルター1枚!薄いけど大事なフィルター・・そういえば・・
というわけで今回は、最近すっかり使う機会がなくなった撮影パーツ
フィルターのお話です。

数あるフィルターの中でも、コダック社製のラッテン・フィルター(WRATTENは開発した英国の会社名)、通称「ゼラチンフィルター」はポジフィルムでの撮影現場には欠かせないモノでした。
filter1

普通は枠に入れてレンズの前(時に後ろ)に付け、発色の微調整、色温度変換(赤く青く)ほか、ポジフィルムの色味を調整する目的に使用してきました。
緑色がかる蛍光灯照明での撮影にも欠かせず、フィルター1枚が無くて最良の結果を得られないということも起こり得ることでした。

filter2各種ゼラチンフィルター
カラーメーター(MINOLTA)
  傷付きやすく経年で劣化するので、使用頻度の高いものは時々買い換え、揃えておかなけれならない、ちょっと厄介なモノでもありました。
忘れて現場で焦ったことも・・・


ところがデジタルカメラ導入後、そのゼラチンフィルターが一部を除いて不要になりました。
カメラ側でコントロールが可能になったからです。

filter3NIKON D3Xの設定画面
感度、ホワイトバランス、
コントラスト、色調等が細かく設定可能。
これはありとあらゆる種類のフィルムとフィルターを所持しているに等しく、ちょっと前には夢のような話で、現場での心理的負担からは相当開放されました。

デジタル化の恩恵をしみじみ感じる場面です。
ただアナログ時代、経験に裏打ちされた各人各様の調整術、名人芸的手法の出番が無くなったのも事実。先輩方の凄い裏技も、ゼラチンと共に去りぬ!といったところでしょうか。

さて、そもそもフィルターとは・・・
珈琲のフィルター、エアコンや浄水器、煙草にも付いていて日常の暮らしに欠かせないものです。
日本語では「濾過器」、濾すもの。液体や気体をある基準で選り分ける、例えば園芸や調理で使う「篩」(ふるい)の役目をするものです。
必要な空気(酸素)は通し、埃や花粉、風邪のウイルスを通さないマスクなどもフィルターの良い例かも。
で、写真用フィルターが篩にかけていたのは「光」です。光は電磁波の一部ですから周波数で振り分けていることになるのですが・・・

まぁ難しい話はさておいて、
日々の暮らしのなか、入学入社や各種試験、人選においては、人の力量、器量さえ篩に掛けられるわけです。各種のランキング、好きも嫌いも篩い分け、フィルタリングに外ならない。
偏見を持って見ることを「フィルターをかけて見る」とも・・・
良いのか悪いのかフィルター!

さてさて、人生事あるごとに篩い落とされ、すっかり角は丸められ粒は揃えられ、どれもよく似た「おっちゃん」と「おばちゃん」が出来上がって・・・・

それでいいんですかぁ!!
おっと、今年も春から脱線、暴走気味ですが
よろしくお願いいたします・・・ね

じゃぁ また


















(13:51)

2010年11月27日

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先日、秋葉原のカメラ量販店で新しくレンズを購入しました。
メインカメラとして使っているニコンの、ズームレンズです。

_DSC0003AF-S NIKKOR
24〜70mm f2.8G ED

標準系ズームとしては、やや大きく重いレンズですが、描写力は抜群。
D3系カメラボディとのバランスが良く使い勝手の良いレンズです。
今や、去っていった大判カメラ用の単焦点レンズ(過去ログ)に変わって、デジタル一眼用のズームレンズが主役になってしまいました。



フィルム撮影の時代には、35ミリの仕事でもズームレンズを使用することは滅多にありませんでした。
重くて暗く(開放F値大)、性能(解像度、発色)の悪い玉ばかり・・・と個人的には避けていたものです。ところが今は・・・・
zoom2

D3Xとズームレンズ3本(14~24,24~70,70~200mm)
これでほとんどの仕事をこなしています。

まず新設計のズームレンズ群の性能が大幅に向上したことがひとつ。
またこの3本で単焦点レンズ12~13本分の画角を無段階、連続的にカバーし、機材の簡素、軽量化にも一役買っていること。
さらにデジタル一眼では出来るだけレンズ交換の回数を少なくしたいというのもズーム使用の理由。
受光素子(実際はローパスフィルター上)への埃の付着を避けたいからです。
・・と、あれこれ理由を付けてみたものの、まぁひと言で云えばズームレンズは何かと「便利」だということになるのですが・・・・

その便利さにかまけて使ってはいるものの、
本音を云えばオートフォーカスとズームレンズはいまだちょっと苦手。
オートフォーカスに付いては別の機会に譲りますが、
ズームレンズに関しては、頼り過ぎると「年月をかけて体得した、各単焦点レンズの画角と撮影距離の感覚が鈍ってしまう」
被写体に対して、一本のレンズを選び、体ごと瞬時に移動(寄ったり引いたり)して決めていた構図を指先ひとつで簡単に変更出来てしまうことで、ぎりぎりまで構図を追い求める気迫が薄れる・・ということでしょうか。
気迫などというものは個人差、心構えの問題かもしれませんが、「便利になって失うもの多し・・」と仲間内でも時々話題にしております。

では、そのズームレンズをなんとも効果的に使った例をご紹介しながら自分への戒めとしておきましょう。ただしこれはムービー、映画の世界でのお話。しかもズームレンズがまだ広く普及する以前の作品です。

それはサスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督の1958年(昭和33年)作品「めまい(Vertigo)」です。
ここでヒッチコックはズームレンズを使い、高所恐怖症の主人公が感じる恐怖感、目眩の感覚を視覚化して見せました。
ズーミングとドーリー(移動)を巧みに組み合わせて得られる効果で、今でも「めまいズーミング(Vertigo shots)」と呼ばれる技法です。被写体のサイズは一定のまま、画面全体の遠近感(パース)が連続的に変化する効果のこと。
百聞は一見にしかず・・未見なら是非ご覧下さい。
memai
め ま い (Vertigo)
完全修復版
1958年 ユニバーサル
監 督
アルフレッド・ヒッチコック
主演
ジェームス・スチュアート
キム・ノヴァク

めまい効果のサンプルを
「めまい」「ジョーズ」その他から→Vertigo Shots


新しい機材を目先の効果に流されることなく使いこなすところはさすが巨匠の仕事です!
その後70年代に入ってズームレンズが一般化した頃の、安易にズーム効果(特にズームアップ)を使った作品は、今見ると安っぽく、また古臭く感じます。
これは僕たちスチールカメラマンも常に気をつけなくていけないことですね。
目先の新しさに流されるな、安易なデジタル効果も含めて!と
・・そうです、え〜ちょっと「めまい」が・・

じゃぁ また




(17:39)

2010年09月28日

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前回「城を歩く22 」で紹介した行田市の忍城からそのまま足を伸ばして、となり町の羽生(はにゅう)市へ。
城は在りませんがちょいと見ておきたいものがあったのです。
土地の人に尋ねたずねして、やっと見つけたのがこれ。
LT1

LT2「田舎教師像」です。
バス停にもなっていて、そのまま
「田舎教師像前」だそうです。
この辺りは東北自動車道羽生インターに近い「弥 勒(みろく)」という地区になります(三田谷かも・・?)
とてもローカルで静かなところです

羽生は明治の作家、田山花袋の小説
「田舎教師」の舞台となった町として知られており、羽生市も文化・観光の名所に小説ゆかりの場所を数カ所挙げています。名物に「田舎教師最中」とか「花袋せんべい」もあるそうです。
inaka
田舎教師〜田山花袋(新潮文庫)
明治42年に書かれた花袋の長編で、
主人公の林清三にはモデルがありました。実在の小学校教師で文学青年の小林秀三という人です。
貧しさ故に進学できず代用教員となって田舎に埋もれてしまい、さらに結核を病み空しく亡くなる・・という何とも寂しい話です。
それでも背景に、清三が歩きまわる利根川流域の情景が心に浸み入るように描かれていて、映像が浮かんで来る作品です。



教鞭を執った三田谷村「弥勒高等尋常小学校」跡地に建てられたのが先のブロンズ像だったのです。
また清三の実家は行田町の城跡の近くとなっていて、この日、先に訪れた行田市とも関わりが深い物語です。
今回はちょっと時間がなくて、行き足りないところもあり、撮りたい映像もあるのでまた近々出直してみようかと思ってます。

LT3それにしてもタイトルの「田舎教師」って今、地方の教職員に面と向かっては云い難いですよね。
云いに難いことは、カタカナでちょろっと誤魔化す広告業界の手管で
今回「ローカル・ティーチャー」ってことにしたのですが・・・・・

はい、これありがち(僕だけ)な間違いですね。これではその「地元の先生」というだけです。
首都に対して田舎という意味にするにはLocalではなくProvincialかな。
ただ、プロバンシャル・ティーチャーって・・う〜ん??


最後に利根川流域の土地らしく「ばんどう太郎」っていうファミレスチェーンでうどん食べて、帰途につきました。
そういえば「田舎教師最中」や「花袋せんべい」って何処で売ってるんですか?
羽生駅周辺ではまったく見かけませんでしたけど・・・
誰か教えて下さ〜い!

じゃぁ また


(19:44)

2010年09月01日

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世の中いろんなランキングがあるもので・・・・
「夏に旅行や遊びに行ってみたい都道府県ランキング」というのを見付けました。→こちら
1位:北海道、2位:沖縄県・・と説明の必要もないのですが
では最下位47位はというと・・「埼玉県」となっていて、やはり説明の必要なしかも知れません。

ならばと、ひねくれ者の僕は8月、世間がお盆休みのなか敢えて埼玉県へ行ってきました。
埼玉県行田市、「ゆきた、いくた」ではなく「ぎょうだ」と読みます。
町名からいきなり「重箱読み」なのです。
ここに城があります。忍城と云います。「しのびじょう」ではなく「おしじょう」です、と前置きが長くなりましたが、今日は行田で「城を歩く」です。
osijo
忍 城(復元三階櫓) : 埼玉県行田市本丸17-23
別名:水城、浮城
築城年:1469~86年
築城主:成田親泰
行田市郷土博物館

一見模造天守に見間違えそうな立派な構えですが、江戸期に築かれた三層櫓を当時の絵図をもとに再建した郷土博物館(1988年再建)です。
その旨きちんと説明されていて、櫓は展示室の一部となります。
全体に立派な博物館で、実物資料を多く展示していて飽きさせません。
全国に点在する、根拠のない模造天守内に甲冑のレプリカを数点ならべてお茶を濁したようなお城型博物館もどきとは別格で、行田市の力の入れようが伝わってきました。
常設の「足袋と行田」では、行田市がかつて足袋(製造)の町だったと初めて知りました。
街の歴史と文化の象徴、アイコンとしてのお城再建の成功例でしょう。
来てみてよかった埼玉県!
そんな郷土の紹介に熱心な行田市にとって、知名度を全国的なものにする絶好のチャンス到来となったのが小説「のぼうの城」でした。

nobou
のぼうの城 〜 和田 竜(小学館)
脚本「忍の城」(03年)を小説化した作品
著者小説デビュー作にして直木賞ノミネート   「本屋大賞」2位

天下統一目前の秀吉の小田原城攻め。圧倒的多数の秀吉軍に北条方の支城が次々と落ちる中、どうしても落とせない城があった。石田三成の水攻めにも持ちこたえた武州忍城。その城代は領民から「のぼう様」と呼ばれた成田長親。「のぼう」とは「でくのぼう」のことだった。今までにないタイプの戦国武将を描く。

本が売れて忍城・行田の名も広く知られるようになったと思ったら、
今度は2011年秋公開で映画化決定と行田市には嬉しいことが続きます。
犬童一心監監督作品。主演、長親役は野村萬斎、他に佐藤浩市、成宮寛貴、山口智充ほかで、この8月にクランクインしています。
その映画「のぼうの城」の公式サイトで合戦シーンのエキストラを募集してました。行田でロケか?面白そうだなと思ってよくよく見たらロケ地は北海道苫小牧とのこと。そりゃそうだと納得。
この合戦の時代、忍城にはまだ立派な櫓などなかったはずですが、さて映画ではどうなっていることやら。

さらにその忍城攻防戦という同じテーマでもう一冊。
mizuno
水の城 〜いまだ落城せず
風野真知雄  祥伝社文庫
2000年刊行作品の新装版
作品の舞台、登場人物とも 「のぼうの城」と同一。どちらが先ということでもなくほぼ同じ時期に準備、執筆が進行していたものと思われます。
とりあえず読み比べてもらうしかないですね。
個人的には本来脚本目的ではない本作の方に、より映像的というか劇画調のシーン展開を感じたのですが・・・

そんなわけで、真夏の一日、灼熱の埼玉は行田に遊び、城址公園あたりをうろつきながら、
「夏草や・・・」のおもいを深く・・しているまもなくもう一カ所、隣町へと急ぎました。
次は、埼玉県羽生市からお届けします・・・

じゃぁ また











(21:52)